地域歴史の復活・再生事業
地域振興・活性化の中で、アートの目線によるフィールドワークの実施により、忘れ去られた、
埋もれてしまった歴史資源などを再発掘し、復活・再生させた取り組み。
〇東山区西福寺「熊野観心十界図 地獄絵絵解き」口頭伝承文化の再生 2006年~2015年
東山の六道の辻一体で8月7日~10日に行われる祖先崇拝の宗教行事、
六道詣り。その期間に西福寺では地獄絵絵解きが行われていた。
先代の住職(故人)が訪れる参拝者に地獄絵(熊野観心十界図)を前に
六道輪廻の教えを説いていたそうだ。前住職がいつから地獄絵絵解きを
始めたのかは定かでないが、絵解きができる後継者がいないため、
前住職と共に地獄絵絵解きも失われ、地獄絵(熊野観心十界図・九相図等)
のみが展示されるようになった。それから絵解きはしばらく途絶えていた。
2006年、異界の友人?地獄絵の造詣に深い関西学院大学教授の西山克氏と
共に地獄絵絵解きを再生・復活させた。
〇東山区粟田神社 180年ぶりに復活した“ねぶた”のルーツ「粟田大燈呂」 2008年~
風流行列として大燈呂が出ていた事が古文書に記されている。
大勢の見物人が殺到し、けが人が続出した為、この風流行列は
中止になったとされている。この神事が途絶えたのは少なくとも
天保3年(1832年)以前と言われており、それ以来大燈呂を見た
という者はおらず、また図版も残っていない。
2008年に粟田大燈呂の復活プロジェクトを立ち上げ大燈呂制作を
始めた。このプロジェクトの一番大事なコンセプトは、大燈呂の
形態そのものを復活させる事ではない。まちを形作っていた祭や
伝統を復活させ、自分達のまちに、こんなにも素晴らしい祭り・行事があったのだという事を思い出し、そしてそれが地域住民の自信と誇りを取り戻す事に繋がる、そんなキッカケづくりが、この大燈呂制作の目的である。
初年度はTVドキュメント番組(関西テレビ)の制作。
〇東山区今熊野神社 650年の歴史を超えて再現公演「今熊野猿楽」 2013年~
世阿弥が、父の観世清次と共に新熊野神社で「今熊野猿楽」の興行を
行った。見物に来ていた足利義光が、その至芸に感激し、二人を同朋衆に
加え、父子をそれぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた。世阿弥は、その後、
父の志を継ぎ、猿楽の芸術性を高め、これを今日の能楽に大成させた。
新熊野神社は足利義光と観阿弥・世阿弥が出会った「機縁の地」でもある。
新熊野神社で行われた「今熊野猿楽」がどのような内容だったのか、
能・狂言・芸能研究者は、その存在は知っていても、内容までは
わからなかった。また、このように歴史的にも重要な資源が未だに埋没していることさえ、地域住民は、ほとんど知らない。
650年前の復元・再現するのではなく、何の演目が行われたのか、これを中心に模索を始めた。そしてもうひとつ大事なことは、これを
新熊野神社の神事の一環として行い、地域住民をその担い手とし、住民に地域の歴史を知ってもらうこと。そして現代の叡知を
結集して、原形に最も近いと思われるものを創作し、新熊野神社の芸能として発展させる。これを基本の理念とした。
〇東山区若宮八幡宮社 半世紀(50年ぶり)に蘇る「陶器人形」 2014年~
毎年8月7日から10日までの4日間、陶器祭りが行われており、陶器を求め全国
から多くの人が集まり、全国最大の陶器まつりとも言われている。陶器まつりの
期間中に若宮八幡宮の参道の傍らに展示されていたのが陶器人形である。
人型は菊人形のように端正な顔立ちをしている。顔は陶器ではないが、衣服は
陶器で飾られている。題材として選ばれていたものは流行りものといった
時代ごとの世相を表すものが多かった。時代の移り変わりや、陶器産業の衰退
などが原因で、陶器人形の作られていた期間はわずか10年ほどで昭和40年に姿を
消した。人々の中に強い記憶として姿を遺しつつも、現代まで姿を現すことなく消えてしまった陶器人形を2014年若宮八幡宮、
地元住民、五条坂陶器祭運営協議会、窯元などの協力のもと、半世紀ぶりに陶器人形を復活させた。
〇京都市東山区 鍾馗神社 建立(若宮八幡宮)
地域に浸透している民間信仰の鍾馗(厄除け・魔除け)。
京都市東山区ではたくさんの鍾馗を見かけることができ、
家を守る以外にまちの生い立ちを伝えてくれる重要な存在でもある。
同じまちを守る地蔵には地蔵盆があるのに何故、鍾馗にはそのような
感謝する祭事がないのか。この素朴な疑問から始まり、鍾馗を正式に
神格化して鍾馗に感謝する神社の建立と、
そして旧住民と新住民を繋げる鍾馗祭りを展開。
〇中京区 綿屋町21年ぶりに復活させた地蔵盆および41年ぶりの復活 切子灯ろう 2014年~
京都の地で地蔵は基本的に1町内1~4体あり、約5000町あるから、ざっと5000体と
見ることができる。地蔵盆は全国的に行われている風習であるが、滋賀、京都、大阪など
関西地方において特に盛んである。昭和12年以前の綿屋町にはお地蔵さんが無く、
子どもたちは遠慮しつつも他所の町内に遊びに行き、地蔵盆を迎えていた。
それを不憫に思った大人たちが子どもたちのために、彩色された本格的な地蔵菩薩像を
作って、昭和12年8月に第一回綿屋町地蔵盆を開催。
当時は、20人以上の子どもたちがいて、開帳供養の他に、福引きなどが行われ、
町内の大きな提灯の他に子ども一人一人の名前の入った提灯などが飾られ、
盛大に行われていた。しかし、時代とともに、だんだんと子どもの数も町内の家の数も減っていき、
地蔵盆そのものの規模も小さくなってきた。平成5年までは地蔵菩薩像(お地蔵さん)は浄心寺というお寺に預け、
地蔵盆の時に、それぞれその年の担当にあたっている家にお迎えし、地蔵盆を行っていた。
お地蔵さんをお迎えしていたものの、それ以降は難しくなり、町内の有志が浄心寺にお参りし地蔵盆としていた。
2014年夏、町内の強い思いがあり、綿屋町の地蔵盆を復活させた。翌年には切子灯ろうも復活。